琵琶湖に架かる橋2つ?? part6
2025年04月17日
琵琶湖に架かる橋2つ?? part6
【琵琶湖横断運河構想の栄光と挫折】
琵琶湖大橋の建設と同時期に、大橋を上回る野心的な交通インフラ構想が進められていました。
それが「日本横断運河」計画です。
この計画は当時としては画期的なもので、中京方面から揖斐川を経由して運河を開削して琵琶湖に接続。さらに琵琶湖から敦賀湾まで運河を通し、3万トン級の大型船が航行できるという壮大なビジョンが描かれていました。
1964(昭和39)年1月、日本横断運河建設促進期成同盟会の広報誌『横断運河』の第10号では、当時の滋賀県知事・谷口久次郎氏が「この時に今日話題を呼んでいる琵琶湖に通じる日本横断運河が計画されたことは誠に意義あるところであります。」と記し、琵琶湖大橋と並ぶ一大プロジェクトとして熱意を示していました。
この運河計画は、日本の物流を根本から変える可能性を秘めており実現間近とも思われていました。
しかし計画の中心人物である自民党の重鎮・大野伴睦氏が1970年に急死すると、計画は求心力を失い始める。さらに1970年代にオイルショックが起こり、海運不況が訪れると大規模な港湾や運河建設にかかる巨額の費用の経済的合理性に疑問が呈されるようになりました。加えて環境保全意識の高まりも影響し、この壮大な計画は徐々に勢いを失い、最終的には歴史の中に埋もれてしまったのです。
そして、21世紀に入って浮上した注目すべき架橋構想がある。
それは琵琶湖に浮かぶ唯一の有人島・沖島(近江八幡市)と対岸を結ぶ橋の計画です。2012(平成24)年、離島振興法の改正を契機に沖島の将来像についての議論が活発化し、そのなかで島と対岸を橋で結ぶ案が検討された。この計画では沖島と伊崎半島を結ぶ約1.4kmの橋が構想され、技術的には実現可能とされていました。しかし、この興味深い架橋構想も現時点では実現には至っていないのです。
≪実現しなかった巨大構想≫
琵琶湖における架橋の歴史は、日本の地域開発と交通インフラ整備の変遷を象徴しています。
水運から鉄道・道路へと主要な交通手段が変化するなかで、地域間格差の解消を目指した琵琶湖大橋はその使命を確実に果たし続けています。
壮大な運河計画や新たな架橋構想など実現しなかったプロジェクトもありますが、琵琶湖の交通インフラは常に地域の発展と深く結びついてきた。
今後も環境保全と経済発展のバランスを維持しつつ、この巨大な湖が人々の生活にどのように影響を与えるのか、引き続き注目しましょう。